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出会い系管理人のブログ

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うめぽんのマジレスファン倶楽部


[34]サッカー批評21号から 4[sage]:05/01/18 21:36 ID:F0KNyZXs
「ここしかないというタイミングの連続だった。
東芝移転だって、もう1年遅れたら実現できなかった。
このタイミングを生かし、とにかく全国組織のJFLにきちんとした形を作って
素早く参加しなければということで精一杯だった。
最初の頃は、まず社内組織をというより、チームの形があることを先にしなければという考えだった」
 濱田は他の若手経済人たちとともに東京・浜松町の東芝本社詣でを繰り返し、
なんとか95年12月に東芝で譲渡OKが決まった。
96年4月21日のJFL開幕までの準備期間はわずか4か月あまり。与えられた時間は少なかった。
出資やスポンサー集めは石屋製菓・石水勲社長や道内老舗百貨店の丸井今井・今井春雄社長が中心となり動いた。
濱田が石水をコンサドーレに巻き込み、その石水が今井を輪に加えた格好だった。
96年の仕事始め以降、道内経済界ではあちこちで新年会が開かれたが、
そうした場で今井が必死にカネ集めをした。
 そして96年4月16日、JFL開幕のわずか5日前にHFC設立にたどり着き、
濱田の言う「きちんとした形」の体裁はなんとかできた。
 とはいっても従業員はイベント会社、旅行代理店など様々なところから寄せ集めのスタートだった。
96年開幕前の従業員は5人程度。部とか課といったセクション分けはあって無きが如し。
 そこから少しずつ人数は増えていったが、初期の事務所は会社の会議室くらいの狭さ。
学園祭とかお祭りを運営するような雑然とした雰囲気だった。
社内の組織や指揮系統を考える余裕はなく、この案件はあなたに、と振り分けられるだけだった。
 その後99年くらいからは現在同様の26名(取締役とチームスタッフ除く)ほどの人数規模になり、
事務所もより広い場所へ引っ越すが、社内には従業員ではない者のデスクがあったりもした。
立ち上げ時の混沌の痕跡は、なかなか消えようとはしなかった。


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