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うめぽんのマジレスファン倶楽部

1 :名無しさん :2004/06/20(日) 13:55
>いまの中年サポさまのご意見は大変失礼ですが
>便所の落書きにしか思えません。

ウメポンカコイイ!!!(;´Д`)ハァハァ

31 :サッカー批評21号から 1 :05/01/18 21:29 ID:F0KNyZXs
【季刊サッカー批評 issue21 2004】
コンサドーレ札幌、つぎはぎの8シーズン ◎永井謙一郎

雪の便りが届くころ、北国のクラブの経営スリム化が聞こえてきた。
コンサドーレ札幌が、身をくねらせてもだえている。
すべての原因は、その発足時に抱え込んだ、現実から目を背け、
問題を先送りにする体質を変えられなかったことにある。8年間のツケが回ってきた。
楽観できる要因は、いまのところまったくない。

◆新社長が決まった夜
 02年12月、札幌のとある居酒屋。外の厳しい寒さと遮断されてほのかに暖かい。
が、還暦を過ぎる男3人が顔を寄せるその席には、煮詰まって重苦しい空気が溜まっていた。
「佐々木くん、やってくれんか」
 もう何度も繰り返し頼まれているが、首を縦には振らない。
その男、佐々木利幸の意思は一向に揺らぐことはなかった。
「市長。私にはサッカーの経験はありません。他に適任の人はいるでしょう」
 自分ももう65歳。かれこれ45年間、市に奉職してきた。
あとはのんびりゴルフでもしながら第二の人生。
これまで働き通しだった自分に、それくらいのささやかなほうびがあったっていいだろう。
 でも、この時の市長、桂信雄(03年5月1日退任、現札幌ドーム社長)の心は一つだった。
隣に座る、98年より4年以上、プロサッカーチームの社長をやってきた田中良明も、
桂とともに説得に加わる。
この三者は札幌市役所時代、財政部で桂部長、田中課長、佐々木係長と、
上司・部下の一本のラインでつながっていた。
 桂にとっては、財政難のサッカーチームの社長に田中を推したのも自分。
その田中がチームのJ2降格決定で引責辞任した以上、
後任を決める責任もまた己にあると感じていた。
民間の経済人からという案もあったが、やりたい素振りをちらちら見せる人物の中に、
巨額の赤字を抱えるチームの改革を任せられそうな者は桂には見あたらなかった。
安心して推せるのは佐々木しかいないと確信していた。
 桂も田中も、佐々木に酒をすすめる。酔わせて、勢いで「はい」と言わせるつもりなのだろう。


32 :サッカー批評21号から 2 :05/01/18 21:31 ID:F0KNyZXs
それでも、佐々木は、コンサドーレ札幌の運営会社、(株)北海道フットボールクラブ(HFC)次期社長という要請を、
「はい、やります」とはっきり言った覚えはなかった。
 けれど、あくる日の新聞に、自分の名前が書かれた「次期社長へ」という記事を見て、
もう覚悟を決めた。お世話になった上司の、そして市長・桂の願いだ。断れない。
 03年1月16日、それまでの役職をきっぱりと辞し、札幌駅北口から徒歩10分ほどの、HFC事務所にやってきた。
 それから半年が過ぎ、初夏の頃。佐々木はぽそりとつぶやいた。
「いやあ、楽しいと思ったことは一日だってないよ」
 03年のコンサドーレはJ2降格の憂き目を挽回しようとしたが、
勝ち点を順調に積むことはできず、J2中位から下位近辺をうろうろ。
勝てなければ客足も落ち込む。収入が落ちれば赤字が増え、会社経営にかかるストレスはどんどん重くなった。
「カネがないのはクビがないのと同じだな・・・」
 新任社長が苦悶する、この北海道のチーム発足からの経緯をたどってみよう。

33 :サッカー批評21号から 3 :05/01/18 21:33 ID:F0KNyZXs
◆開幕わずか5日前の会社設立
 コンサドーレは「移転型Jクラブ」の最も後発のチームだ。
95年、札幌市での若手経済人の活動と、署名運動などを起こした市民レベルの活動が同時進行で進み、
そこに川淵三郎チェアマン(当時)の紹介があり、川崎市のJFL・東芝サッカー部とつながった。
 90年代半ばは、日本の企業はリストラへの流れが激しくなる頃。
東芝にはもとよりサッカー部のプロ化の意向はなく、
96年以降はどんどん費用を減らしていって廃部にしようという消極的な考え。
チームのJFL参加権利を譲渡しても構わない。
こんな思惑とうまく合致して、札幌移転、プロチームに仕立てることができた。
 当時、チーム作りに奔走した一人に、日本航空札幌支店に勤務していた濱田翼(はまだ・たすく)がいる。
96年から00年12月まで出向でのHFC常務で、試合運営とチーム編成に携わる運営本部長だった。
現在はJALグループに戻り、東京・銀座の(株)日本航空文化事業センターの部長職。
92年に始まり、今やさっぽろ雪まつりに匹敵する札幌のビッグイベントとなったYOSAKOIソーラン祭りでも、
スポンサーの獲得ノウハウなどで濱田のアイディアが祭りの運営構想に取り入れられている。
また今でも札幌市内のライブハウスで濱田の名は浸透していて、アーティストや広告代理店との人脈は広く、
文化・イベント関連での敏腕さには実績がある人物だ。
そんな濱田は創立時の様子をこう回想する。


34 :サッカー批評21号から 4 :05/01/18 21:36 ID:F0KNyZXs
「ここしかないというタイミングの連続だった。
東芝移転だって、もう1年遅れたら実現できなかった。
このタイミングを生かし、とにかく全国組織のJFLにきちんとした形を作って
素早く参加しなければということで精一杯だった。
最初の頃は、まず社内組織をというより、チームの形があることを先にしなければという考えだった」
 濱田は他の若手経済人たちとともに東京・浜松町の東芝本社詣でを繰り返し、
なんとか95年12月に東芝で譲渡OKが決まった。
96年4月21日のJFL開幕までの準備期間はわずか4か月あまり。与えられた時間は少なかった。
出資やスポンサー集めは石屋製菓・石水勲社長や道内老舗百貨店の丸井今井・今井春雄社長が中心となり動いた。
濱田が石水をコンサドーレに巻き込み、その石水が今井を輪に加えた格好だった。
96年の仕事始め以降、道内経済界ではあちこちで新年会が開かれたが、
そうした場で今井が必死にカネ集めをした。
 そして96年4月16日、JFL開幕のわずか5日前にHFC設立にたどり着き、
濱田の言う「きちんとした形」の体裁はなんとかできた。
 とはいっても従業員はイベント会社、旅行代理店など様々なところから寄せ集めのスタートだった。
96年開幕前の従業員は5人程度。部とか課といったセクション分けはあって無きが如し。
 そこから少しずつ人数は増えていったが、初期の事務所は会社の会議室くらいの狭さ。
学園祭とかお祭りを運営するような雑然とした雰囲気だった。
社内の組織や指揮系統を考える余裕はなく、この案件はあなたに、と振り分けられるだけだった。
 その後99年くらいからは現在同様の26名(取締役とチームスタッフ除く)ほどの人数規模になり、
事務所もより広い場所へ引っ越すが、社内には従業員ではない者のデスクがあったりもした。
立ち上げ時の混沌の痕跡は、なかなか消えようとはしなかった。


35 :サッカー批評21号から 5 :05/01/18 21:37 ID:F0KNyZXs
 だが、成績では不安なんてなかった。
初年度は5位だったが道内ホーム全勝。2年目の97年は、前年から在籍のDFペレイラに加え、
GKディド、MFウーゴ・マラドーナ、FWバルデス、他に日本人選手も豊富に補強し、
まるでJFLオールスターのようなラインナップで、順調にJFL優勝、Jリーグ入りを果たした。
一般のサポーターにとっては、悲願とか苦節などの思いも薄く、トントンと階段を上がっているように感じた。

◆道と市による公金導入
 ところがこの優勝時の97年11月から12月にかけて、早くもHFCのメッキがはがれ落ちた。
1年目7億9000万、2年目で17億8000万円と累積債務が膨らみ、どんどん資本金を食いつぶしていく。
 金銭面の計画と結果を見比べてみよう。
96年予算では入場料2億7000万円、広告料7億2000万円を見込んでいたが、
決算では入場料1億3000万円、広告料2億4000万円と、それぞれ2分の1、3分の1にも満たない実績しかなく、
これが7億9000万円の赤字の8割方を占める。
97年度も、予算の時点で既に7億8000万円の赤字を計算していて、
決算も、広告料収入は予算の6割強の3億9000万円しか達せず、赤字も9億8000万円に達した。


36 :サッカー批評21号から 6 :05/01/18 21:40 ID:F0KNyZXs
 最初から無謀な計算だった。ただ、試合に勝つことでうやむやになっていた。
勝つためには、選手への出費で赤字になるのも仕方のないこと。
そんな考えが支配していた。
 そこに97年12月、今井が本業・丸井今井で財務悪化の責任を問われ、
トップの座から追放され、同時に道内経済界の第一線から脱落したことが、
HFC危機への直接的な引き金となった。
もとをたどればこの前月、北海道金融界の心臓ともいえる北海道拓殖銀行が破綻したことが、
丸井今井内の経営見直しの契機となった。
 チーム初期のスポンサー企業は、HFC会長だった今井の掛け声で集まったところが多い。
さらに97年は今井と石水が各3億5000万円ずつ銀行に預金して、
それを担保に同額の融資をHFCが銀行から受け、運転資金としていた。
この分のあてがごっそりなくなることは即、資金繰りのピンチを意味する。
この今井失脚は、赤字挽回について甘いメドを持っていたHFCにとって、
まったくその後の見込みを狂わせることになった。
 97年当時のHFC経営状態は、今井会長、石水副会長(現在のHFC役職は副社長)、
そして金井英明社長(其水堂金井印刷社長)と代表取締役が三人いて、
「三人で一人の社長をやっていたようなもの」(金井・北海道新聞98年2月11日朝刊)
 と、決定者が一本化されてなく、あいまいだった。
そんな状態で今井が抜け、HFC首脳たちは桂市長に助けを求めた。
 02年ワールドカップの開催都市となり、試合会場となる札幌ドームの建設も決まった。
そんな町でJリーグチームがなくなるというのは対外的に悪印象だ。
HFCを支援すべし、と桂は決断した。かつての自分の部下の、
元助役で札幌リゾート開発公社社長の田中を新社長として送り、
当時の堀達也北海道知事にも連絡し、98年には運転資金として市と道それぞれ5億円ずつの貸付金と、
99年からは年1億円の補助金拠出(道は00年から)を決めた。


37 :サッカー批評21号から 7 :05/01/18 21:41 ID:F0KNyZXs
「一私企業に役所が支援するのはなぜかという反論もあったが、
HFCには設立時に出資していて(1億5000万円)、
公金を投入したからには市として責任がある。
田中くんは気の強い男で、昔から上司の私の言うことを聞かなかった(笑)。
彼なら決断、実行を進めてくれると思った」(桂)
 ただ、田中は、スキー場やプールを運営する開発公社社長と兼務しながらの、非常勤社長。
「HFCは財政難。支出を少しでも減らすため、社長報酬は出ない。
無給でも仕事を行うハングリー精神を見せてやれと言って送り出したんだが・・・」(桂)
 報酬が出る方の開発公社に対しても田中は社長として当然責任がある。
HFC社長室のイスに座ることができるのはせいぜい週2、3日。決定者にはなりきれなかった。
 こうなると社員は、役員抜きに、これまで通りのバタバタぶりで仕事を進めようという意識のままになる。
財政難の危機感も、支援を受けてからしばらく経つと徐々に薄くなっていった。
結局は、市や道の支援も、課題の先送りという効果にしかならなかった。
 HFCは延命し、Jリーグの舞台も踏めた。
 これまでなんとかなってきたんだから、これからもなんとかなるだろう。
 HFCは入場料と広告料という収入の二本柱の強化に向けての抜本的な営業方策を立てられず、
目の前の小さな穴を埋めるだけの、課題先送り、つぎはぎの策に走る。


38 :サッカー批評21号から 8 :05/01/18 21:43 ID:F0KNyZXs
◆あの手この手の金集め
 98年はJリーグ年会費の延納を許してもらいながら、あれこれ動いた。
1個500円のカンバッジを買ってもらってチームへの募金としたり(97年12月末から)、
「サポートシップスポンサー」という広告枠もできた。
個人商店や飲食店対象の、年5万円の小口枠だ。100万や1000万単位の大口が無理なら、
せめて小口をかき集めようとした。
 また「コンサドーレ札幌北海道後援会」なる任意団体も生まれた。
1口5000円を出して、事務経費などを除いた分をHFCに寄付して、収入不足を補おうという趣旨だ。
初年度からあったファンクラブとこの後援会はどう違うのかと誰しも疑問を持ったが
「(ファンクラブは)グッズの割引や入場券の割引があります。
(中略)形としての見返りを期待するのであればファンクラブ」
「後援会は、基本的に寄付をするということです」(濱田・札幌都市研究センター「札幌都市研究第8集」より)
 こう強引に言うしかなかった。
 後援会立ち上げ時の98年度HFC決算では、後援会からの収入として1000万円を計上している。
ところが翌年度の予算では、これをいきなり4億円の収入と見込んでいる。
 この99年度予算の最終目標は110万円の経常利益。
ここから法人税等を引くと40万円だけの赤字になり、ほぼプラスマイナスゼロと称することのできる範囲内。
 つまりは、HFC本体とは別物である後援会がうまく機能しなければたちまち赤字ですよ、という
体のいい責任転嫁の仕組みになっている。
 実際、フタを開けてみると、99年度決算での後援会収入は9500万円どまり。
4億円なんて単なる数字合わせに過ぎなかった。
年度途中に札幌市からの補助金1億円が入ってもまだ足りず、約2億1000万円の単年度赤字となり、
累積債務はますます膨らんだ。
この年は9月に石屋製菓がHFCに対し運転資金として2億円のつなぎ融資をしている。
資金繰りの拙さは依然残っていた。

39 :サッカー批評21号から 9 :05/01/18 21:45 ID:F0KNyZXs
 00年11月から12月にかけて、「サポーターズ持株会」会員公募による増資活動が行われた。
持株会とは96年からあるもので、1口5万円を払って会員になり、
その5万円は持株会名義のHFC株1株になる。このときで3回目となる会員公募=増資は、
要はサポーターに向けて「5万円出してくれ」ということだ。
カネ不足は相変わらずで、大金を出してくれる企業が見つからなかったための策だった。
これには約3億円が集まった。この年のJ2優勝の波にうまく乗れた。
 この好感触を受けて、01年11月から1年間、持株会理事有志のかけ声で、
今度は増資ではなく収入として募金が集められたが、約4000万円にとどまった。
波は引いていた。
 03年は個人対象、1口1万円の「パーソナルスポンサー」なる企画を7月に立てていた
(04年度収入に振り分けられる)。収入源はもう年度途中で予測できていたので、
なんとか新たな下支えになればということだった。
しかし社内の動きが鈍く、実行が明らかになったのは、J1昇格の可能性が数字上消失する直前の9月下旬。
サポーターはすっかり意気消沈している頃で、タイミングを逃した。
10月下旬時点で集まったのは約200口。現在も募集中だが、HFCとしてはもう1ケタ欲しいのだ。
 ファンクラブ、持株会、募金、後援会、サポートシップスポンサー、貸付金、補助金、パーソナルスポンサー・・・。
これらはHFCのつぎはぎの歴史だ。
          ●


40 :サッカー批評21号から 10 :05/01/18 21:47 ID:F0KNyZXs
 HFCの資本金は、設立時の96年4月で8億3700万円。
その後、増資を幾度か繰り返し、現在は25億5625万円。
この増資の目的は、もっぱら選手・監督などトップチーム人件費のためだった。
 通常、企業において資本金を募るのは、工場など企業の資産を築くためであり、
選手の給料は資産とはいえない。
なのに、入場料や広告料などの収入で選手人件費をまかなういう理想的な構図に近づける努力を怠り、
赤字になり、やむなく資本金を現金という流動資産に取り崩して、それを食いつぶすという構図になり、
設立2年目にして早くも破綻の音が鳴り響いた。
しかしその後も、00年のように、増資で金を得ようとした。
 資本金5億円以上の企業は商法上大会社扱いとなり、株主総会で決算を通すにも監査法人の監査が必要で、
監査法人への費用は年間400万円。
さらに04年度からは資本金1億円を超える企業については法人事業税について外形標準課税導入のため、
HFCの資本規模だと例え赤字でも年間約600万円が納税になるだろうとHFCでは計算している。
今となっては、資本金が膨らんだせいで04年度からは黙っていても毎年1000万円は飛んでいく。
若手選手を2人雇えておつりがくる。

41 :サッカー批評21号から 11 :05/01/18 21:49 ID:F0KNyZXs
◆名前優先の監督人事
 チーム現場はというと、99年より3シーズン、岡田武史監督体制になる。
98年の1シーズンだけトップリーグを経験したが、すぐ転落し、翌年はJ2。
00年J2優勝でチームに再び意欲が戻り、01年はJ1残留という最低限の目標を達成する。
00年度からの2年間はHFCも単年度黒字を続けて達成。
特に01年は札幌ドームオープンの年で、5試合のドーム戦すべて3万人以上の観客動員で、
やっとこれからチームも右肩上がりになるかと誰もが夢想していた頃だ。
 この岡田招聘については、濱田が交渉人だった。
「ウーゴ・フェルナンデス監督(97年〜98年10月)の代理人と金銭面で問題が生じ、
もう代理人を介する外国人監督はやめよう、次は日本人だということになった」(濱田)
 98年晩夏から秋のことだった。浮かび上がった監督候補者は、岡田の他に加茂周、加藤久。
もとより彼らとのパイプがあったわけではない。要するに名前先行だった。
「Jリーグ関係者から岡田の携帯の番号を聞き出し、フランスワールドカップ後の動向を探ったら、
フリーのようだと。ならばと即座に電話して、都内のホテルで会う約束をとりつけた。
口説いた事は3つのポイント。
1つは、代表監督を経験したとはいえクラブのトップチーム監督の経験はないのですから、
キャリアを積んでみてはと。
次に、ワールドカップであれほどの騒動に遭ったのですから、一度首都圏を離れてみてはどうですかと。
3点目に、ウチはかつての日本リーグから続く古いチームではないので、人脈とか慣習に縛られず、
自由に指揮をふるうことができますよ、と説いたわけです」(濱田)
 これに岡田は同調した。
ただし収支のまずさを加入後に知り、「だまされた」と後に半分本気でこぼすのだが。


42 :サッカー批評21号から 12 :05/01/18 21:51 ID:F0KNyZXs
 このような手法での監督探しは、二度も同じようにうまくはいかない。
 02年、岡田の後を継いだのは柱谷哲二。
公認S級ライセンスを取得したばかりで、監督としての手腕は未知数。
ここでも、岡田の時のように
「ドーハの戦士、日本代表の有名選手だ」
 と、経営陣が名前先行で選び、賭けた。
 S級取得には、C級、B級へと段階を踏むことが必要だが、
日本代表国際Aマッチ出場20試合以上もしくはJリーグ公式戦出場200試合以上の人材については
C級からS級へ飛び級が可能。柱谷はその最初のケースだった。
 その柱谷の就任「内定」会見は02年1月8日。
S級取得を受けての正式な監督就任発表は1月17日。
就任報道は前年末に既に広まっていて、体制を早く固めてチーム始動に向けたいための日取りだった。
 しかし戦績は開幕からずっと最下位に沈んだ。
柱谷の解任日は直前の公式戦(5月12日・ナビスコカップ)から3週間を過ぎた、
ワールドカップ期間内でJ公式戦休止中の6月3日。
初の飛び級監督ということと、元日本代表キャプテンの重みを考慮して、時間を費やした。
この解任日は札幌ドームでのイタリア対エクアドル戦の日。
喧騒に紛れるように発表された。
その後、ラミドロ・イバンチェビッチ、前年よりコーチの張外龍と監督を二度代えるが、勝運は来ず、
2シーズンでまたJ2降格となった。
 03年監督はジョアン・カルロス。鹿島(リーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯)と名古屋(天皇杯)で優勝歴があり、
厳しい性格で鳴らす人物だ。
降格して意気消沈しているチームに必要なのは強気だという考えと、
そして「1年でJ1復帰」というHFCの目標に則っての監督人選だった。
これは佐々木社長就任前の02年11月に固まった方針だ。
 目標を高く掲げないといい選手を引き留められないし、社員の志気も下がるだろう。
周辺の空気もチームを見放して誰もついてこないのでは。
サッカーチームは勝たなきゃだめだ。そんな考えから、副社長の石水が切り出した道筋だった。

43 :サッカー批評21号から 13 :05/01/18 21:52 ID:F0KNyZXs
 この時、社長の田中や他の経営陣は誰も道筋を決めることができなかった。
決定者不在の社風は依然続いていた。
だから、創立時からHFCの関わる石水がなんとか決断して、物事を進めるしかなかった。
 この目標に基づき、03年トップチーム人件費(選手・監督・コーチ)は前年度決算(約8億5000万円)と
ほぼ同レベルの約8億6000万円を注ぎ込んだ。
特に開幕時点のブラジル人選手・監督・コーチングスタッフには2億円をかけた。
J1に上がるにはいい選手の確保を、いい選手にはカネがかかるだろう、と考えたからだ。
 一方、この年の予算は450万円の黒字で計算。
何か一つのメドが外れれば即赤字に転落する、ギリギリの数字だった。
 丁か半か。J1仕様の金額を投入しての賭けは見込みを外した。
主力選手にケガ人続出、外国人選手はシーズン途中で3人総入れ替え、
監督は8月にジョアン・カルロス辞任、再び張に交代とことごとく裏目となり、昇格ラインにはほど遠い9位。
順位低迷は収入減へつながり、約2億5000万円以上、
もしかしたら3億円もの単年度赤字を背負いそうな結末となった。

44 :サッカー批評21号から 14 :05/01/18 21:54 ID:F0KNyZXs
◆スタッフは育ったのか
 03年。こうした課題山積みのHFCに、田中と違い今度は常勤として、佐々木は身を投じた。
まずとにかく様々な場へ顔を出そうと決めていた。
自身の長所と信じるフットワークの軽快さを生かそうとした。
 札幌北高卒業後、57年に市役所に入った佐々木の最初の仕事は防疫。
業者と一緒になっての野犬狩りだった。
 自分は指揮する立場だから、クルマにでも乗って黙って仕事を見守っているだけでもよかった。
でも、上の人間も一緒になって働けば、下の人間もよりやる気が出る。
「おい佐々木さんよ、俺たち向こうから犬を追い回すから、あんたそこで待ち伏せしてくれ」
 こうして、どんな人とも、どんな仕事でも分け隔てなく、日々汗を流してきた。
佐々木の手には、その最初の仕事の頃に野犬に咬まれた痕が残っている。
 HFCに来る直前の役職は、(財)札幌市青少年婦人活動協会の理事長。
つまりは児童会館を運営したり、夏休みになったら子供たちをキャンプへ連れて行くなとどいった、
地道に人に触れ合う仕事だ。
「複雑に絡んだ問題を、現場に飛び込んで見事に解きほぐしていく。
市立病院の事務局長(91年就任時)時代は、病院移転(95年移転)の計画を立てる際に
1000人近い医師・職員たちと相当やりあいながら粘り強く遂行した。
学歴だけで人を判断してはいけないものだが、
高校卒で局長職(95年・民政局長)までなるというのは、札幌市役所においてはすごいことなんだよ」
 桂の、市役所時代についての佐々木評だ。

45 :サッカー批評21号から 15 :05/01/18 21:55 ID:F0KNyZXs
 桂は打ち合わせの時によく部下の佐々木を連れて行った。
言った、言わないのトラブルを防ぐため、傍らで話を聞いておく役割としてだ。
「おい、こないだ言ったことと違うじゃないか!」
 とひるまずに問い詰めた。上の立場の桂が言いにくいことも、佐々木はためらわず口にした。
その実直ぶりを桂は信頼していた。
             ●
 就任後の1月から3月にかけて、佐々木はHFC社員一人ずつ全員、個別面談をした。
まずは対話からだ。そうして社内の様子の把握に努めた。
 しかし、設立8年目でこれほど会社は淀むものなのか・・・と呆然とした。
 Jリーグの会議などいろいろな用件で東京に出張することが多い。
会社の財政難は先刻承知なので、佐々木自身は日帰り旅程を組んで、夜8時羽田発の最終便で帰札した。
ところが他の社員は、最終便に間に合うはずなのに1泊の旅程を組み、
しかも、ビジネスホテルよりもう1ランク上のホテルに泊まっていた。
コスト管理意識はないのか?
「なんで社長の俺が日帰りなのに、彼らはあんないいホテルに泊まるんだ?」
 事務所の1階にはチームグッズの売れ残りが山ほどある。
Jリーグ共通グッズ販売実績でコンサドーレはJリーグ中売上高トップという時期もあった。
だが適正発注という緻密な計算ぶりはグッズの山からは見られなかった。
デッドストックと化しているものもある。
在庫として抱えているグッズは、HFC首脳の言を借りると、原価レベルで約6000万円分にものぼる。

46 :サッカー批評21号から 16 :05/01/18 21:57 ID:F0KNyZXs
 営業活動の動きも、元公務員の目から見ても明らかに鈍い。
数年前のことだが、ユニフォームスポンサーという大お得意様のサッポロビールに、
スポンサー契約期間スタートの2月をとうに過ぎ、4月になってやっと契約書を持って訪れたということがあった。
その他のスポンサー企業でも、HFCの営業が挨拶に来るのは年に3度もあるかどうかというところもある。
 淀んだ空気を一掃するため、5月には人事異動を行い、今までの流れを断ち切ろうとした。
毎週火曜日の朝礼で、
「チームがなくなるんだぞ!」
 と一喝し、手を動かして1枚でもチケットを売り、足を動かして1件でもスポンサーを取ってこなければ、
もうつぶれるぞと訴えた。
それでも、いろいろ理屈を言って、下の人間は動かない。
自治体の支援や市民からの募金で持ちこたえてきて、危機意識が育たずにきたツケなのか。
 それでも佐々木は粘り強く辛抱もした。
ホームゲームには札幌だけでなく函館や室蘭でも全試合、会場に入り、試合後は撤収完了まで会場に残った。
パイプ椅子や机の片づけにも加わった。
まずは現場第一だ。自ら体を動かし、姿勢で真剣さを示さなければ、社員は自分を信じてついてこない。
 秋には辛い決断にも踏み切った。
「もう来年からは全てがゼロベースからだ。コストだって1割、2割減じゃない。
半分減らす。皆のこの冬のボーナスは出ないし、来年からは給料も減る。
でも会社とチームは存続させる。これは断固としてやるぞ!」
 朝礼でそう言い放った後、社長室に、
「自分はこの会社でがんばります。チームのためにやります」
 と腹をくくって決意表明してきた者は4人いたという。また
「今の会社はこういうところがまずいと思いますので、自分にやらせてください」
 と訴えてきた者もいる。
 やっと危機感が芽生えてきたのだろうか。かすかな希望だ。

47 :サッカー批評21号から 17 :05/01/18 21:59 ID:F0KNyZXs
◆ビフテキより、ホッケやジャガイモ
 03年12月3日、札幌市内のホテルで、スポンサー企業を対象にした謝恩会が催される。
 その場で、HFCの04年度からの「5か年計画」が発表される運びだ。
中身は、年度ごとの収支や成績のメド、札幌市内のユース練習場周辺の整備計画など。
 5年かけてのんびりJ1に上がれれば、という弱気含みのものではない。
5年かけてこれまでの淀みを一掃し、会社を根底から作り直し、
5年後の時点でJ1定着が果たせていることがテーマ。いわば「第二の創業」だ。
 もう無謀な見込みの収入案、見栄を張った予算は組まない。
03年10月時点での大まかな枠だが、04年度予算で、収入は入場料3億、広告料4億、
Jリーグ分配金1億、市と道からの補助金各1億で計10億円。
支出は、トップチーム人件費3億、トップチーム遠征・合宿費2億、ユースチーム費1億、
試合運営費2億、社内人件費1億、その他1億で、計10億円。
03年度は20億円体制だったのを、半分にスリム化する。
カネの使い方が半分になるのだから、発想の大転換も迫られる。
佐々木は歯を食いしばって語る。
「選手強化サイドは、『本州の選手には大金積まなきゃ北海道には来てくれません』と言う。
でももうそれじゃ会社はもたないし、選手の気持ちは『来てやったんだ』というおごりのまま。
ウチには大枚はたいてビフテキ食わしてという選手はもういらない。
ホッケやジャガイモ食ってでもチームのためにがんばるという選手と一緒に汗を流したいんだ」
 カネのこと、チームのこと、会社のこと。今までの8シーズンはつぎはぎだらけだった。
改革なんてちっとも手をつけてこなかった。誰も責任を持たなかった。
つぎはぎというごまかしは、いつかは千切れる。つぎはぎでない真の土台を築かなければ。

48 :サッカー批評21号から 18(終) :05/01/18 22:00 ID:F0KNyZXs
 いっそHFCをつぶして新たに運営会社を作り直せば、という意見も外から聞こえる。
しかし、自身も大金を投じ続けて新運営会社を作って動かそうという、
責任感も行動力も財力も全て備える人物がいるのか。
慌ててチーム作りを進めた96年の時、道内経済団体の重鎮がその性急ぶりに歩調を合わせることができず、
「お手並み拝見」のスタンスをとり、以降HFCに巻き込むことがうまくできていないという経緯がある。
得たものもあれば、手からこぼれ落ちたものもある。
周りをぐるっと見渡してみると、HFCが消えれば、コンサドーレも同時に消える可能性もある。
「何年も後になって、あの時にこれをやってよかった、と言われてもそれでいいんだ。
私自身は、道筋を作るための捨て石だよ」
 就任時に比べすっかり白髪が増え、顔のツヤも落ちた佐々木は、
市民がコンサドーレの存在で喜び続けられるよう、責任を背負い、
これまでのツケを払おうと、もがいている。

(文中敬称略)


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