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うめぽんのマジレスファン倶楽部
[27]名無しサポ[sage]:04/10/12 21:57 ID:7FgElDCk
以前どこかのスレで永ちゃん(矢沢永吉)のこと言っていたと思うので、カキコしました。
そしてマジレスしてくださることを願って…。
実は、11月14日の永ちゃんのライブのチケットが友達とダブってしまったのです。
詳細は↓の掲示板に出しました。うめぽんさんでなくても、誰か秒刊の住人に興味がある人がいたら…。
ttp://www.shin-mei.com/cgi-bin/joyful/joyful.cgi
これで見れなければ、↓で、「さいとう」で出してます。
ttp://www.shin-mei.com/yazawa/ticket.htm
サッカーネタでなくてごめんなさい。(管理人さん、不適切でしたら削除してください。)
[28]UMEPON-08ms ◆cCSsJIN5WA [age]:04/10/14 10:59 ID:8G/YhCDs
一枚だとちょっと厳しいかも。。。
しかも時間被らないとはいえ天皇杯の日ですかぁ。
だれか居ないかなぁ。。。
[29]名無しサポ[sage]:04/10/14 23:56 ID:EHY9kZWk
UMEPONさん、マジレスしてくれてありがとうございます。
2枚連番なのですけれど、ただ、2階のC列。ひどい席ですよね。という私達もB列なのですが。
13日行かれる方で14日も観たいという方か、初心者の方向けかなぁと。
おまけに、そうなんですよね、天皇杯があるんですよね…あぁ室蘭かぁ。
でも、レスしてくれてありがとうございます。観にいきたい方で、お心当たりあればお知らせください。
[30]名無しサポ[sage]:05/01/18 21:22 ID:F0KNyZXs
「じゃがほっけ宣言」に引用されているサッカー批評21号(2004/1/10第1刷発行)の永井さんの記事。
手軽に入手できる雑誌ではなかったから、全文を読んだことがない人もいるだろう。
発表から1年が経った今、去年1年の歩みを振り返る参考にひっそりと全文を投下してみる。
改行をしてないので、専ブラユーザー以外の方、読みにくかったらスマソ。
で、投下場所はやっぱりこのスレでいいよね?!w
[31]サッカー批評21号から 1[sage]:05/01/18 21:29 ID:F0KNyZXs
【季刊サッカー批評 issue21 2004】
コンサドーレ札幌、つぎはぎの8シーズン ◎永井謙一郎
雪の便りが届くころ、北国のクラブの経営スリム化が聞こえてきた。
コンサドーレ札幌が、身をくねらせてもだえている。
すべての原因は、その発足時に抱え込んだ、現実から目を背け、
問題を先送りにする体質を変えられなかったことにある。8年間のツケが回ってきた。
楽観できる要因は、いまのところまったくない。
◆新社長が決まった夜
02年12月、札幌のとある居酒屋。外の厳しい寒さと遮断されてほのかに暖かい。
が、還暦を過ぎる男3人が顔を寄せるその席には、煮詰まって重苦しい空気が溜まっていた。
「佐々木くん、やってくれんか」
もう何度も繰り返し頼まれているが、首を縦には振らない。
その男、佐々木利幸の意思は一向に揺らぐことはなかった。
「市長。私にはサッカーの経験はありません。他に適任の人はいるでしょう」 省49
[32]サッカー批評21号から 2[sage]:05/01/18 21:31 ID:F0KNyZXs
それでも、佐々木は、コンサドーレ札幌の運営会社、(株)北海道フットボールクラブ(HFC)次期社長という要請を、
「はい、やります」とはっきり言った覚えはなかった。
けれど、あくる日の新聞に、自分の名前が書かれた「次期社長へ」という記事を見て、
もう覚悟を決めた。お世話になった上司の、そして市長・桂の願いだ。断れない。
03年1月16日、それまでの役職をきっぱりと辞し、札幌駅北口から徒歩10分ほどの、HFC事務所にやってきた。
それから半年が過ぎ、初夏の頃。佐々木はぽそりとつぶやいた。
「いやあ、楽しいと思ったことは一日だってないよ」
03年のコンサドーレはJ2降格の憂き目を挽回しようとしたが、
勝ち点を順調に積むことはできず、J2中位から下位近辺をうろうろ。
勝てなければ客足も落ち込む。収入が落ちれば赤字が増え、会社経営にかかるストレスはどんどん重くなった。 省6
[33]サッカー批評21号から 3[sage]:05/01/18 21:33 ID:F0KNyZXs
◆開幕わずか5日前の会社設立
コンサドーレは「移転型Jクラブ」の最も後発のチームだ。
95年、札幌市での若手経済人の活動と、署名運動などを起こした市民レベルの活動が同時進行で進み、
そこに川淵三郎チェアマン(当時)の紹介があり、川崎市のJFL・東芝サッカー部とつながった。
90年代半ばは、日本の企業はリストラへの流れが激しくなる頃。
東芝にはもとよりサッカー部のプロ化の意向はなく、
96年以降はどんどん費用を減らしていって廃部にしようという消極的な考え。
チームのJFL参加権利を譲渡しても構わない。
こんな思惑とうまく合致して、札幌移転、プロチームに仕立てることができた。
当時、チーム作りに奔走した一人に、日本航空札幌支店に勤務していた濱田翼(はまだ・たすく)がいる。
96年から00年12月まで出向でのHFC常務で、試合運営とチーム編成に携わる運営本部長だった。 省24
[34]サッカー批評21号から 4[sage]:05/01/18 21:36 ID:F0KNyZXs
「ここしかないというタイミングの連続だった。
東芝移転だって、もう1年遅れたら実現できなかった。
このタイミングを生かし、とにかく全国組織のJFLにきちんとした形を作って
素早く参加しなければということで精一杯だった。
最初の頃は、まず社内組織をというより、チームの形があることを先にしなければという考えだった」
濱田は他の若手経済人たちとともに東京・浜松町の東芝本社詣でを繰り返し、
なんとか95年12月に東芝で譲渡OKが決まった。
96年4月21日のJFL開幕までの準備期間はわずか4か月あまり。与えられた時間は少なかった。
出資やスポンサー集めは石屋製菓・石水勲社長や道内老舗百貨店の丸井今井・今井春雄社長が中心となり動いた。
濱田が石水をコンサドーレに巻き込み、その石水が今井を輪に加えた格好だった。
96年の仕事始め以降、道内経済界ではあちこちで新年会が開かれたが、
そうした場で今井が必死にカネ集めをした。 省40
[35]サッカー批評21号から 5[sage]:05/01/18 21:37 ID:F0KNyZXs
だが、成績では不安なんてなかった。
初年度は5位だったが道内ホーム全勝。2年目の97年は、前年から在籍のDFペレイラに加え、
GKディド、MFウーゴ・マラドーナ、FWバルデス、他に日本人選手も豊富に補強し、
まるでJFLオールスターのようなラインナップで、順調にJFL優勝、Jリーグ入りを果たした。
一般のサポーターにとっては、悲願とか苦節などの思いも薄く、トントンと階段を上がっているように感じた。
◆道と市による公金導入
ところがこの優勝時の97年11月から12月にかけて、早くもHFCのメッキがはがれ落ちた。
1年目7億9000万、2年目で17億8000万円と累積債務が膨らみ、どんどん資本金を食いつぶしていく。
金銭面の計画と結果を見比べてみよう。
96年予算では入場料2億7000万円、広告料7億2000万円を見込んでいたが、 省16
[36]サッカー批評21号から 6[sage]:05/01/18 21:40 ID:F0KNyZXs
最初から無謀な計算だった。ただ、試合に勝つことでうやむやになっていた。
勝つためには、選手への出費で赤字になるのも仕方のないこと。
そんな考えが支配していた。
そこに97年12月、今井が本業・丸井今井で財務悪化の責任を問われ、
トップの座から追放され、同時に道内経済界の第一線から脱落したことが、
HFC危機への直接的な引き金となった。
もとをたどればこの前月、北海道金融界の心臓ともいえる北海道拓殖銀行が破綻したことが、
丸井今井内の経営見直しの契機となった。
チーム初期のスポンサー企業は、HFC会長だった今井の掛け声で集まったところが多い。
さらに97年は今井と石水が各3億5000万円ずつ銀行に預金して、
それを担保に同額の融資をHFCが銀行から受け、運転資金としていた。
この分のあてがごっそりなくなることは即、資金繰りのピンチを意味する。 省46
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