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うめぽんのマジレスファン倶楽部
[32]サッカー批評21号から 2[sage]:05/01/18 21:31 ID:F0KNyZXsAAS
それでも、佐々木は、コンサドーレ札幌の運営会社、(株)北海道フットボールクラブ(HFC)次期社長という要請を、
「はい、やります」とはっきり言った覚えはなかった。
けれど、あくる日の新聞に、自分の名前が書かれた「次期社長へ」という記事を見て、
もう覚悟を決めた。お世話になった上司の、そして市長・桂の願いだ。断れない。
03年1月16日、それまでの役職をきっぱりと辞し、札幌駅北口から徒歩10分ほどの、HFC事務所にやってきた。
それから半年が過ぎ、初夏の頃。佐々木はぽそりとつぶやいた。
「いやあ、楽しいと思ったことは一日だってないよ」
03年のコンサドーレはJ2降格の憂き目を挽回しようとしたが、
勝ち点を順調に積むことはできず、J2中位から下位近辺をうろうろ。
勝てなければ客足も落ち込む。収入が落ちれば赤字が増え、会社経営にかかるストレスはどんどん重くなった。 省6
[33]サッカー批評21号から 3[sage]:05/01/18 21:33 ID:F0KNyZXsAAS
◆開幕わずか5日前の会社設立
コンサドーレは「移転型Jクラブ」の最も後発のチームだ。
95年、札幌市での若手経済人の活動と、署名運動などを起こした市民レベルの活動が同時進行で進み、
そこに川淵三郎チェアマン(当時)の紹介があり、川崎市のJFL・東芝サッカー部とつながった。
90年代半ばは、日本の企業はリストラへの流れが激しくなる頃。
東芝にはもとよりサッカー部のプロ化の意向はなく、
96年以降はどんどん費用を減らしていって廃部にしようという消極的な考え。
チームのJFL参加権利を譲渡しても構わない。
こんな思惑とうまく合致して、札幌移転、プロチームに仕立てることができた。
当時、チーム作りに奔走した一人に、日本航空札幌支店に勤務していた濱田翼(はまだ・たすく)がいる。
96年から00年12月まで出向でのHFC常務で、試合運営とチーム編成に携わる運営本部長だった。 省24
[34]サッカー批評21号から 4[sage]:05/01/18 21:36 ID:F0KNyZXsAAS
「ここしかないというタイミングの連続だった。
東芝移転だって、もう1年遅れたら実現できなかった。
このタイミングを生かし、とにかく全国組織のJFLにきちんとした形を作って
素早く参加しなければということで精一杯だった。
最初の頃は、まず社内組織をというより、チームの形があることを先にしなければという考えだった」
濱田は他の若手経済人たちとともに東京・浜松町の東芝本社詣でを繰り返し、
なんとか95年12月に東芝で譲渡OKが決まった。
96年4月21日のJFL開幕までの準備期間はわずか4か月あまり。与えられた時間は少なかった。
出資やスポンサー集めは石屋製菓・石水勲社長や道内老舗百貨店の丸井今井・今井春雄社長が中心となり動いた。
濱田が石水をコンサドーレに巻き込み、その石水が今井を輪に加えた格好だった。
96年の仕事始め以降、道内経済界ではあちこちで新年会が開かれたが、
そうした場で今井が必死にカネ集めをした。 省40
[35]サッカー批評21号から 5[sage]:05/01/18 21:37 ID:F0KNyZXsAAS
だが、成績では不安なんてなかった。
初年度は5位だったが道内ホーム全勝。2年目の97年は、前年から在籍のDFペレイラに加え、
GKディド、MFウーゴ・マラドーナ、FWバルデス、他に日本人選手も豊富に補強し、
まるでJFLオールスターのようなラインナップで、順調にJFL優勝、Jリーグ入りを果たした。
一般のサポーターにとっては、悲願とか苦節などの思いも薄く、トントンと階段を上がっているように感じた。
◆道と市による公金導入
ところがこの優勝時の97年11月から12月にかけて、早くもHFCのメッキがはがれ落ちた。
1年目7億9000万、2年目で17億8000万円と累積債務が膨らみ、どんどん資本金を食いつぶしていく。
金銭面の計画と結果を見比べてみよう。
96年予算では入場料2億7000万円、広告料7億2000万円を見込んでいたが、 省16
[36]サッカー批評21号から 6[sage]:05/01/18 21:40 ID:F0KNyZXsAAS
最初から無謀な計算だった。ただ、試合に勝つことでうやむやになっていた。
勝つためには、選手への出費で赤字になるのも仕方のないこと。
そんな考えが支配していた。
そこに97年12月、今井が本業・丸井今井で財務悪化の責任を問われ、
トップの座から追放され、同時に道内経済界の第一線から脱落したことが、
HFC危機への直接的な引き金となった。
もとをたどればこの前月、北海道金融界の心臓ともいえる北海道拓殖銀行が破綻したことが、
丸井今井内の経営見直しの契機となった。
チーム初期のスポンサー企業は、HFC会長だった今井の掛け声で集まったところが多い。
さらに97年は今井と石水が各3億5000万円ずつ銀行に預金して、
それを担保に同額の融資をHFCが銀行から受け、運転資金としていた。
この分のあてがごっそりなくなることは即、資金繰りのピンチを意味する。 省46
[37]サッカー批評21号から 7[sage]:05/01/18 21:41 ID:F0KNyZXsAAS
「一私企業に役所が支援するのはなぜかという反論もあったが、
HFCには設立時に出資していて(1億5000万円)、
公金を投入したからには市として責任がある。
田中くんは気の強い男で、昔から上司の私の言うことを聞かなかった(笑)。
彼なら決断、実行を進めてくれると思った」(桂)
ただ、田中は、スキー場やプールを運営する開発公社社長と兼務しながらの、非常勤社長。
「HFCは財政難。支出を少しでも減らすため、社長報酬は出ない。
無給でも仕事を行うハングリー精神を見せてやれと言って送り出したんだが・・・」(桂)
報酬が出る方の開発公社に対しても田中は社長として当然責任がある。
HFC社長室のイスに座ることができるのはせいぜい週2、3日。決定者にはなりきれなかった。
こうなると社員は、役員抜きに、これまで通りのバタバタぶりで仕事を進めようという意識のままになる。 省21
[38]サッカー批評21号から 8[sage]:05/01/18 21:43 ID:F0KNyZXsAAS
◆あの手この手の金集め
98年はJリーグ年会費の延納を許してもらいながら、あれこれ動いた。
1個500円のカンバッジを買ってもらってチームへの募金としたり(97年12月末から)、
「サポートシップスポンサー」という広告枠もできた。
個人商店や飲食店対象の、年5万円の小口枠だ。100万や1000万単位の大口が無理なら、
せめて小口をかき集めようとした。
また「コンサドーレ札幌北海道後援会」なる任意団体も生まれた。
1口5000円を出して、事務経費などを除いた分をHFCに寄付して、収入不足を補おうという趣旨だ。
初年度からあったファンクラブとこの後援会はどう違うのかと誰しも疑問を持ったが
「(ファンクラブは)グッズの割引や入場券の割引があります。
(中略)形としての見返りを期待するのであればファンクラブ」
「後援会は、基本的に寄付をするということです」(濱田・札幌都市研究センター「札幌都市研究第8集」より) 省43
[39]サッカー批評21号から 9[sage]:05/01/18 21:45 ID:F0KNyZXsAAS
00年11月から12月にかけて、「サポーターズ持株会」会員公募による増資活動が行われた。
持株会とは96年からあるもので、1口5万円を払って会員になり、
その5万円は持株会名義のHFC株1株になる。このときで3回目となる会員公募=増資は、
要はサポーターに向けて「5万円出してくれ」ということだ。
カネ不足は相変わらずで、大金を出してくれる企業が見つからなかったための策だった。
これには約3億円が集まった。この年のJ2優勝の波にうまく乗れた。
この好感触を受けて、01年11月から1年間、持株会理事有志のかけ声で、
今度は増資ではなく収入として募金が集められたが、約4000万円にとどまった。
波は引いていた。
03年は個人対象、1口1万円の「パーソナルスポンサー」なる企画を7月に立てていた
(04年度収入に振り分けられる)。収入源はもう年度途中で予測できていたので、 省24
[40]サッカー批評21号から 10[sage]:05/01/18 21:47 ID:F0KNyZXsAAS
HFCの資本金は、設立時の96年4月で8億3700万円。
その後、増資を幾度か繰り返し、現在は25億5625万円。
この増資の目的は、もっぱら選手・監督などトップチーム人件費のためだった。
通常、企業において資本金を募るのは、工場など企業の資産を築くためであり、
選手の給料は資産とはいえない。
なのに、入場料や広告料などの収入で選手人件費をまかなういう理想的な構図に近づける努力を怠り、
赤字になり、やむなく資本金を現金という流動資産に取り崩して、それを食いつぶすという構図になり、
設立2年目にして早くも破綻の音が鳴り響いた。
しかしその後も、00年のように、増資で金を得ようとした。
資本金5億円以上の企業は商法上大会社扱いとなり、株主総会で決算を通すにも監査法人の監査が必要で、
監査法人への費用は年間400万円。 省16
[41]サッカー批評21号から 11[sage]:05/01/18 21:49 ID:F0KNyZXsAAS
◆名前優先の監督人事
チーム現場はというと、99年より3シーズン、岡田武史監督体制になる。
98年の1シーズンだけトップリーグを経験したが、すぐ転落し、翌年はJ2。
00年J2優勝でチームに再び意欲が戻り、01年はJ1残留という最低限の目標を達成する。
00年度からの2年間はHFCも単年度黒字を続けて達成。
特に01年は札幌ドームオープンの年で、5試合のドーム戦すべて3万人以上の観客動員で、
やっとこれからチームも右肩上がりになるかと誰もが夢想していた頃だ。
この岡田招聘については、濱田が交渉人だった。
「ウーゴ・フェルナンデス監督(97年〜98年10月)の代理人と金銭面で問題が生じ、
もう代理人を介する外国人監督はやめよう、次は日本人だということになった」(濱田)
98年晩夏から秋のことだった。浮かび上がった監督候補者は、岡田の他に加茂周、加藤久。 省38
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